一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

もみじ台で新築と店の開店

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もみじ台で新築と店の開店

南三条店も其のままにしては置けないので、急遽店舗付き住宅を貸すと言う形で不動産屋に御願いし、二・三件の申込みが有った中から、裏の近所に有った中野理容所に勤めていた伊藤さんという人に貸すことに致しました。

其処からも、店の権利金と言いますか、什器・備品代とでも言いますか、三百万円で決めこのお金も建築資金の方に当てました。

昭和四十九年十一月、もう隠しておけないのでお客さんに移らなくては成らなくなった訳を報告し、今までお世話になったお礼を申し上げました。その中には「お店は移っても、私はもみじ台まで頭を刈りに行くから」と言ってくれた人も居りました。本当に有り難いものだと思いました。

もみじ台店

何とか、昭和四十九年十二月までには完成させ、営業したかったのですが、全部の完成には未だ暫く掛りそうでしたので、市役所に提出する完成届は出してはいなかったのですが、保健所の許可が降りましたし、三条店も貸す都合も有り、無理に引っ越しをし(引っ越し荷物も可也有りトラックで四台位)それに自分の車では、もみじ台に視察に来るたびに、少しづつ運んでおりました。

又室蘭からも、親父達の荷物が、これ又トラックで二台分届き、其の始末にも家内や登美義姉を始め、私達も手伝いましたが思うようには片付かず、テンヤワンの忙しさで、手も付けられない、忙しさでした。

おまけにお店の準備にも手間取りましたが、漸く十二月十六目に開店に扱ぎ付け、何とか営業する事が出来ました。

こ家は、私が自分で設計し、店のデザイン・材料・照明器具等、全部自分で選んで買って来ました。それだけに、愛情も有り又自信も可也有りましたが、唯一お客さんがどの位来てくれるのか全く判らないのが一番の心配であり不安でした。

本来は、この十二月十六日辺りは、大晦日近くに向け、一番暇な時期でしたので、開店用のチラシ(粗品進呈と書いた)を道新・朝日・毎日・読売等の各新聞販売店に御願いして各家庭に配って貰いました。

それでも余り、私達は当てにはして居ていなかったのですが、朝起きて(六時半頃)二階から下の居間に降りて行きますと何やら外が騒がしいので、窓から覗いて見るとお店の前に四・五人の人だかりが立って居ました。

店内

冬ですので、寒いだろうと思い寝巻きの侭、店の入り口を開け中に入れ、急いで服を着て皆を起こし直ぐ仕事を始めました。

私は、混むのも午前中位だろうと思い、朝食を取らずに其の侭仕事を続けたのですが一向にお客さんの入りは途切れず、結局食事に有り付けたのは仕事が終わった夜の八時半位の時でした。

このような状態が二・三日続きましたので、之では身体を壊して仕舞うと思い其れからは必ず、朝食を済ませてから仕事に掛ることに致しました。お昼は御握りを作ってもらい店の陰で食べながら仕事をしました。

その後もこの忙しさは続き、結局そのまま年末の忙しさに突入し本当に猫の手も借りたいと言う諺の通り、てんてこ舞いの忙しさでした。お正月は三日間休みましたが、一月だと言うのに四日の仕事始めからは、又大変忙しく、うれしい悲鳴が出る位でした。

因みに、親父達は家が完成して落ち着くまでは、来られても困りますのでお正月過ぎまでは、姉の所で御世話に成り、その後は各兄弟の家を転々と歩き御世話に成っておりましたが、三月の始め頃には、両親の部屋も完成いたしまして、家具等の配置も終了しましたので私達の元に呼び入れました。

この忙しさは暫く続きました。この頃の理容店は、もみじ台で私の店を入れて三軒しかなく、又車の持って居る人も少ないため店が込んで居ても他の店に行くのも大変ですし、行ったとしてもどこもこんでいる状態でした。

一月の半ば位に、地区会の組合加入の薦めに、篠原さんと桝田さんが店に参りました。私は、最初から入会をする予定でしたので、快く承諾いたしました。引越をしてきた時点でもご近所の挨拶は勿論、もみじ台で只一件営業をしていた中野さんと当時の地区会長菊池さんの所には菓子折りを持って挨拶に行きました。

又一月の二十日に白石協議会所属、理容厚別地区会の新年会があり、その時に始めて顔を出し、皆に紹介して貰いましたが、その時の会員数は僅か十五軒でした。

その年の四月には、中野さんが地区会長に選出されました。前に書きましたように私は店に従業員を使おうと思って居りましたが、兄貴達が来ましたので、従業員が一人もいないのは久し振りの事でしたし、子供の散髪も中央では殆ど来なかった為、慣れるまでは暫く大変でした。

又兄貴は中央に居た時は、長髪とパーマの様な特殊のお客が多かったので、殆ど私に任せて仕事をする機会が少かったのですが、もみじ台に来てからは普通の刈上げが多く彼が得意とする分野でしたので、すっかり若返り、張りきって居りました。

又この頃は近所付き合いも良く、同年代の子供達が多かった性もあり、いつも集まって話をしたり飲んだりしたものです。

父達も自分の部屋や、この団地に満足をしてくれたみたいでした。その後、暫くは家に居りましたが落ち着くと又兄弟達の所へ出掛ける様に成りました。親父達も私たちと一緒に暮らすようになってからは良く親戚の連中も家に集まる様に成りました。

南三条店は、伊藤さんと言う人に貸したのですが、半年もしないうちに「この家を売ってほしい」と言う事で始めはお断わりをしていたのですが「どうしても売って欲しい」と何度も私の家まで来て頼むものですから、根負けをして売る事に致しました。

普通売ってほしいと言う場合は、高く買ってくれるものですが逆に「同じ理容をしている身であれぱ金の無いのが判るはず」とか言って、私が望んだ金額より可也り値切らせられとうとう二千万円で売る事にいたしました。

しかし、銀行や国庫からの借入金を支払ったり、税金を取られたりして手元に残ったのは一千二百万円でした。それを四人(優兄・登英、日人・スミ)の名前で道銀と北洋に三百万円づつ、定期預金を致しました。

この時分は、預金の金利は大変良く、年六分も付き、この利息で兄貴夫婦と我々夫婦が交代で内地旅行に行ったものです。

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