一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

中学時代(思春期)

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中学時代(思春期)

 やがて小学校が終わり新生中学に入学致しましたが、兄貴の家からこの北辰中学校は、緑町の一番上に有り測量山の麓までは可なりの距離で近くまで行くと今度は百メートル位の急勾配の坂を上り詰めた所にあり、漸く学校に辿り着きますので、子供の足で五十分以上は掛りました。朝は七時半位に登校しなければいけないので、慣れるまで随分大変でした。

 新生中学に成ってからは男女共学で座る席順も、男女交互で男子の隣と前後は女子、同じく女子の隣と前後は男子と言った具合でした。最初の頃は慣れずに随分緊張し、気も使いましたが、私の隣の女の子は男まさりでとても頑固者の気が強い三沢良子(あだ名がイサバやと言われていた。)という子が座ることになりました。

 勉強時間に私が良く先生の話を聞こうとすると三沢さんは、「真面目に成るな」と私の脇を孤りちょっかいをかけてくるものだから、勉強どころではなくなり、一学期の成績が凄く悪くなってしまったのです。(中学の成績の単位は点数で八十五点以上が優に相当し三十五点以下は可に相当し此れを赤点と称して居ました。)

 私は得意だった理科系が四十五点と云う恥ずかしい点数でしたのでこれではいけないと思い家に帰ってから猛勉強をして二学期には一変し八十点まで引き挙げました。

 後から思うに彼女は私が好きだったのかも知れませんね・・・・。

 私の友達は元々小学校の同級生が多かったのですが中学でも仲良く遊んだのは加藤孝一君(市立病院前で営業していた御菓子屋さんの息子さん)や山本滋君達でした。

 その頃私は、クラスでは成績も良くスタイルも顔も綺麗な松岡さんに一寸ばかり気が有り、もっと親しい友達に成りたく彼女が何処に住んで居るかを探るため、加藤君のお店の自転車で松岡さんの学校帰りを密に付けて行き、家まで突き止め呼び出して貰ったのですが彼女は出て来てはくれませんでした。

 その代り彼女の妹達が応対してくれ「お姉ちゃんに何の用事があるの」と聞かれ、一寸お話しが有るので呼んで来て頂戴」と頼みましたが彼女は顔を出してはくれませんでした。あれが初恋なのかも知れません・・・・。

 箕れから二か月位経ってからの事ですが、学校で捕鯨会社の見学会が有り全校生徒で出かけました。当時の室蘭では、鯨を船から上げると、電動の巻き上げ機では無く、馬が二頭で回転しながらロープで引き上げ、それをなぎなたの様な大きな包丁で解体していく様子は見事なものでした。皮だけでも三十センチ位も有りその下には油身が又五十センチ位も有りその下に漸く肉が1メーター位も有るのには驚きました。

 そんな中、担任の中川先生が私の所に近寄ってきて何やら聞きずらそうに「一寸加納さんに聞きたい事がありますがもし違っていればごめんなさいね。」と云い、「実は加納さんらしい人が千葉さんの家に毎晩の様にピンポンとチャイムを鳴らして、中から人が出て来ると逃げてしまい迷惑をして居る」と言っているのだがと言われました。

 始めは松岡さんの事を聞かれるのかと思い、ハラハラしていましたが、違いましたので大威張りで「いいえ、私は千葉さんの家には一度も行ったことも有りませんし、まして夜に外に出掛ける事は全く有りません。」と言いましたら「鳴呼そうですか其れなら宜しいです。」と言い、私の傍を離れて行きました。心の中では、我々見たいな人が他にも居るんだなと思っていました。

 箕のうちに共学の学校生活にも慣れ、段々釘ち解けて会話も自由にできるようになり、女性も又我々男性に慣れ気さくに色々な事を御互いに理解しあえる仲に成って行きました。その後、隣の席の三沢さんが、私の家に二・三度遊びに来ましたが、その時に来ていた床屋のお客さんに「彼女か?」と茶化されるように聞かれ、嫌な思いをしたせいか、私もあまり相手にしないので彼女も段々と来なく成り安心しました。
 
 やがて一年生も終わり二年生に成ったのですが、此処でクラス変が行われ勉強の出来る学級と、余り出来の良くない子の学級に分けると云う事になり、多少の不安が有りましたが御蔭様というか成績の良い学級に選ばれました。二年七組で覚えている顔の生徒も多いのですがむしろ知らない人の方が多かった様な気がしました。

 其処で又私は一人の女の子を好きになりました。その子は満州(今の中国。「万里の長城」で区分されていた日本人がかなり住んでいて、満鉄と云う当時世界でも有名な鉄道を建設していた。終戦のどさくさにまぎれて中国に返還させられた土地。)から来た女の子で、髪が肩位まで伸ばし、顔も綺麗でまるで映画に出てくるクウニャンの様な子でした。

 口数が少ない子で、私は、恥ずかしさのあまりその人とは話もろくにできませんでした。そうこうしているうちに言葉も交わさない内に、その子は又何処かに転校してしまいました。そんな訳で又も私の片思いは三カ月余りで自然消滅した事に成りました。

 その時の二年生の担任は国語の先生で余り喧しい事は言わない温厚な先生でした。その先生が、二学期の国語の時間の時、「二葉亭四迷」原作の「浮雲」と云う題名の小説の一節が国語の本に乗っており、それを読み終わると先生が「この後を知りたい人は図書館で探すか、家に文学全集等を持って居る人は読んで見てください。」と言われたので、私は確か父の書斎に並んでいる文学集に「二葉亭四迷」の名がのっていた様な気がしたので、早速、舟見町の実家に行き本箱を覗いて見たところやはり有りましたので、母に断っては借りてきて読んでみました。

 其れから文学に目覚めてしまい、父が集めていた明治・大正・昭和文学全集を片っ端から読みあさりました。

 又此の時代は、食料難でお米等は全く無く、芋や南瓜等も品薄でしたし又小麦粉も限られた分しかなく、我々のような丁度食べ盛り伸び盛りの時期の子供たちは、毎日がひもじさでいっぱいでした。

 そんな時代は、まだまだ続き今度は、駐留軍より乾燥トウキビとその粉など(本当のトウキビでは無くコウリャン類の一種では無いかと思われる。)が配給されたのでずが、その味ときたら美味しくなく、とても人間の食べられる物では有りませんでした。

 其れを炊いても煮ても、粉を水に溶かし焼いても蒸かしてもパンにしても喉に入って行かない状態で直ぐに「げえっ」と戻したくなる不味さでしたが、其れを食べない事にはお腹が減りますので無理矢理に喉に押し込むと言った状態でした。

 耐えられなくなると、私は時々船見町の実家に行きおやつを貰い食べ終わると本町へ大急ぎで走り帰り何とか飢えを凌いだものです。

 この頃の二年生の時の友達は、大和田君・大河内君・消防署長の息子で真田君、仙台から転茂してきた野口君等でしたが彼達とは色々な思い出が残っています。

 夏は兄貴の店を真っ直ぐに登って行った所から下に降りて行くと有る、電信浜で良く海水浴をしたり、冬はスキーをしに測量山の麓に有る通称豚小屋の坂に出掛けたものです。

 夏の海水浴は余り得意では無かったのですが、一年生の時に私の前に座っていた橋本さんと云う大人しく無口な女の子が泳いでいたのですが、その子が、かなり遠くの方まで泳ぐ姿を見て私も負けてはいられないと思い一生懸命泳ぐようになり、やがて彼女より遠くまで泳げる様に成りました.。

 スキーは、あまり上手では有りませんでしたが、何とか下まで転ぱないで滑れるように成りました。冬は雪が無い時は良く歌留多(板歌留多と云う北海道独特の百人一集)を担いで、測量山へ行く路の麓に有る清水町まで歩いて行き、何時間もやっていたものです。

 この歌留多は三人一組で相手と向かい合い、対して突き手が札五枚を持ち中手は十五枚・守り手は三十枚を守る役です。別に守りが相手の札を取っても構わないのですが三十枚も自分の処に持って居ますので中々相手の札にまでは目が届きませんが上手になると相手の札を取れる様に成ってきます。
 
 突き手も同じで相手の札ばかりきにして居ますと自分の札が有るのを忘れ取られてしまう事も有り其れが又面白いのです。

 北海道は冬が長く寒いのでこの様な板で作ったのでしょうが、此の板歌留多を取る時には大きな声で「有るか・有るか」の掛け声あり、一枚取った時にはその辺の並んでいる歌留多を引っ繰り返し、走り回る位の勢いが又面白かったのです。女の子とやる場合もその調子でしたものですから加納さんは野蛮だと不評をかったものです。
 
 この遊びは大人にも流行り休日には兄貴の店でも時々やりましたがその音を聞いて、知らない人が入ってきて歌留多取りに参加をしたものです。

 私はこの頃になると学校に行くのも成れ遠回りして測量山の断崖より綺麗な海を眺めながら、マスイチと云う名所を見下ろし、清水町を下り常水町を通って本町へと帰って来た事も何度か有りました。

 この頃、仙台から転校してきた野口君に「加納は、柔道に興味はないか?」と聞かれ
私は姿三四郎の本を読んでいて柔道には憧れて居ましたが自分で柔道をしたいとは思った事もなく教えてくれる人もいなかったので「いや嫌いではないが教えてくれる人もいないので、そういう気持ちになったことはない。」と答えると、彼は、「僕が手ほどきをしてあげるからやろう」と半強制的にさせられました。

 彼は仙台に居る時に習っていてその時に二級の資格が与えられていたのです。私は実家の家に優兄と秀人兄の使った柔道着や剣道着が有ることを知っていたので其れを持ち出し着て測量山の平らな広場で、先ず受け身の練習や取組み方・投げ方等を毎目の様に学校帰りに練習する様に成りました。

 只、あまり慣れないことをしたので腕は勿論身体中ガタガタで痛くなり、すぐ兄貴にバレ「顔を剃るのに剃刀が震えるから止めなさい」と怒られましたが隠れて三級を取るまで続けました。

 彼は、三年の半ば位で又仙台に転向しましたので、その後は警察の道場に練習に行っていました。その警察の柔道は厳しく私のような子供は一人も居なかったのですが情け容赦なく堅い畳にボンボン投げられ柔道着も破れるくらい体中が真っ赤に成り痛くて大変でした。私は投げ方や防御の仕方を教えて貰っていなかったので只投げられるばかり、勿論力の差が歴然で、少し柔道を覚えていたとしても相手に成るものではなかっと思いまずが、その警察官は「お前受け身は上手だな、初段位にはなるかも知れないぞ」と言ってくれましたので其れだけでも嬉しかったです。

 ある時、高校生の人が練習に見えその人と柔道をしてみましたがその時は五分に戦えました。それからもしばらく道場に通い三級の資格は頂きましたが前にも書きました様に、優兄に「剃刀を持つ手が震えるので止めなさい。」と、再度、言われそれ以来柔道は諦めました。

 野口君はその後、仙台育英高校に行き三段迄成ったとお手紙を貰いました。やがて三年生に成り今度の担任は、今野と云う数学の先生でしたが中々厳しい先生でしたが、私には優しく色々教えてくれ自然と私も数学が好きになり成績も上がって来ました。

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