一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

信一義兄と祖母の思い出

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信一義兄と他の思い出

 信一義兄は、当時(戦争中)、資産家(芽室の駅前に貸家二十軒位所有して居た)の娘さんと養子結婚をし、名前を池田信一から佐藤信一に変更していいました。
 しかし、その資産家の家は空襲で全部燃えてしまったそうですが、その後帯広に移り土地・家屋を買い入れ不動産関係の仕事をして居たらしいのですがあまり詳しい事は判りません。

 たぶん私が中学一年生の頃だったと思いますが、私達家族全員を登別温泉第一滝本館に招待してくれました。初めて奥さんの顔を拝見しましたが、とても綺麗な方で手先も器用そうで、卓球も上手でした。
 その当時、登別からはバスも走ってなく駅から温泉までは四キロほど歩くのは大変でした。

 その後、彼の弟(池田公健)が私が中学二年生に成った頃、終戦で帰って来て優兄の家に居候を始め、私と龍人兄が住んでいる二階で一緒に暮らす事になったのですが、この人は、戦争で南洋の方面に行っていたらしく病気(マラリヤ・天狗熱・癩病等)に成り多分戦争で人を殺めたり仲間が殺される様子を見ていたせいで精神的にもかなりのグメージを受けた事も要因かと思われますが、夜中になると急に大きな声で唸り声を上げ、うつ伏せで畳の上を手で叩きながら部屋中を歩き回っているので、気持ちが悪いのと恐ろしいのとで一晩中寝れない日が続きました。

こちらの方がノイローゼになりそうだったので、優兄に相談し「一緒には暮らせない」と告げ、兄は父にその旨を伝え彼を美幌の家に有ったお稲荷さんの裏に部屋を作り、彼をその部屋に住んで貰うことにしました。

戦争というものは、終わったあともいろんな傷跡を残します。生きて帰ってきても幸せに過ごせない人もいるのです。

美幌に居た御祖母さんのその後

 その頃を前後して美幌に居た御祖母さんが今で云う痴呆性に成り、一人では置いておけない状態で父が無理やり汽車に乗せ船見町の実家に連れて来たのですが「美幌から去るのが嫌だ」と汽車の中でも何度も父の手をかじったそうです。

 暫く実家で暮らしていたのですが母が持て余し、今度は優兄の処に連れて来て一階の部屋に棲まわしたのですが、矢張り痴呆が激しく成り又美幌に帰りたい願望とで、悪さばかり繰り返し、しまいには米櫃の中に小便をしたり、皆がお店で仕事に夢中になっている折に、家を脱走して警察に保護されたりで始末に負えなく成り(その当時は老人ホーム見たいなものは有りませんでした)部屋の引き戸の下に釘を刺し外に出れない様にしたのですが、夜中などに指先で釘の頭を探し器用に抜いて外に出て行き、又警察より呼び出しの電話があったりで大変でした。

 ある小雨の降る夜中の事です、御祖母さんの寝ている隣の部屋で兄夫婦が寝ているのでずが二階の我々に「大変だ、御祖母さんが居ないトイレの窓から逃げた、早く起きてこい」と怒鳴られ、急いで下に降りて行き合羽を着て優兄・登美義姉・龍入兄・私とで外に飛び出し探しましたがいっこうに見つからず父の方にも連絡し又警察にも連絡して皆で朝方迄探しましたが等々発見出来ませんでした。

 次の日の朝、七時頃警察より連絡が有り室蘭線構内の端に鉄道職員住宅で(構内取締の様な住宅)で「朝、用事の為物置を開けたら中に御婆ちゃんが座っていたので、吃驚して警察に連絡をしました。」という事で我が家で引取りに行き、一件落着其れからは寝たきりとなり又父達の住む実家で引取りました。

 トイレの窓から出た時に頭から落ちて、頭を痛めたのに雨の中良くあんな遠いとこまで行ったものだ、其れに線路が十数本も並んでいる処で汽車が度々通過する中を通り越しあの家まで辿り着いたものだと感心しました。矢張り本能というのか室蘭駅に向かい美幌に帰りたかったのでしよう・・・・。

 その後、お医者さんに診て貰ったのですが「まだまだ元気ですから九十歳位までは生きますよ」と言われましたが、其れから三カ月位で眠るがごとく死んで逝きました。昔鬼婆と緯名が付いていた頑固なお祖母さんも死んで行く時は穏やかに亡くなって逝くものですね・・・・。
 私も、このお祖母さんに育てられたと思うと考え深いものが有ります。

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