一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

優兄の理髪の道へ

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優兄の理髪の道へ

 しばらくして父は、仕事が優秀だったこともあり課長に昇格することになりました。しかし、役職が上がると公務員には転勤がつきものです。やはり父にも、帯広行きの転勤がきまりました。

 帯広では、土木事務所(その後、土木現業所になる。)の勤務となり、そこでのは、所長のすぐ下の人がやる仕事を任せられました。今の役職でいえば次長クラスにあたるのかと思います。そのせいか通勤は、公車が家まで迎えに来ていたそうです。

 その転勤に伴い、優兄は帯広の中学校に転校することになったのですが、帯広には公立中学校しかなく、田舎といえども結構な学力が求められそうです。

 到底、勉強の苦手な優兄は、付いて行くことができず、おまけに勇七兄が卒業してしまったものだから、彼を守ってくれていた楯がなくなってしまい、転校生ということもあってか、益々虐めはエスカレートしていったそうです。

 そのころから優兄は、父に何度も「学校を辞めたい」と言って居たらしいのですが、父も職業柄、頭の固い人間なのでそんなことを許すはずはありません。

 しかし、優兄も学校から帰ってくるたびに、何度もしつこく言うものだから父も一つの条件を出したそうです。その条件が「床屋に成るのなら辞めても良い」と言うことだったそうです。

 父には、考えがあったのだそうです。実は、優兄は床屋が大嫌いだったのです、床屋でじっと座っていることと髪の毛を短くされることが大嫌いだったそうです。いい加減伸びてからでないと床屋に行かない彼に、母はいつも困っていたそうです。

 それをいつも見ていた父が、考えた苦肉の策だったのだと、あとになって語っておりました。床屋にならなければ、学校が辞められないのなら、きっと辞めたいなどとはもう言うまいと思ったそうです。

 それと父は、先祖が鍛冶職人だったこともあってか、当時から職人という職業は良い仕事だと思っていたそうです。ましてや床屋さんは、一生食いっぱくれのない良い仕事だと日頃から思っていたらしいのです。

 そんな条件を出された優兄は、しばらく「学校を辞めたい」という言葉を口に出さず、頑張って学校へ通っていたようです。しかし、とうとう我慢の限界がきたらしく「父さん、床屋でも良いからどうしても学校は勘弁して欲しい。」と、泣いて頼んだそうです。

 そこまで覚悟して、辞めたいと言うのならと父も遂に折れ、父の知り合いでもあった、当時では、札幌でも評判の良い「上原チェーン」という床屋さんの中でも一番弟子の中村正九の店(北一条西一丁目)に奉公に行くことになりました。

 そこは当時、札幌の中では技術ナンバーワンと言われたお店で、札幌一厳しいお店でも知られておりました。幾ら父の顔といえども丁稚奉公には変わりはなく、最初は技術を教わるどころか毎日掃除・洗濯・ストーブ焚き等の雑用、中村師匠の子供(後に水戸黄門の風車の矢七役で映画デビユーしました「故・中谷一郎」、本名・中村正昭)の面倒を見る事が仕事だったそうです。

 そのお店は、大通り公園が近い事もあって、主にその近辺で子供を遊ばせてくるのですが、帰りにオシッコ等を漏らしたり、面白くないことがあるのか、泣かれて帰ってくると容赦なく叱られ、頭を二・三発は叩かれたり、蹴飛ばされたりしたものだそうです。

 今でこそ、パワハラなる言葉もあるくらいで、教育と体罰は別である考えが一般的ではございますが、昔は、体罰も教育の一貫であり、当たり前の時代です。初めての仕事で何もかも初体験ということもあり、お坊ちゃん育ちの彼にとっては重労働だったことだと思います。

 そんな修行が三か月をたった頃、やはり無理が祟ったのでしょうか、突然胸が苦しくなり、病院へ行くと「肋膜炎」(肺の外部を覆う胸膜に炎症が起こる疾患である。結核性のものも多い。)と診断され、帯広の家に帰されてしまいました。

 そして、しばらく病養した結果、病気も完治し、もう一度頑張ろうと修行先の中村へ連れて行かれたところ、先方から断られてしましました。

 しょうがなく思った父は、今度は、地元である帯広の繁華街で営業していた「宮本理髪店」さんに頼み込んで、住み込みで丁稚奉公をさせていただくこととなりました。

 そこでは、優兄も肌に合ったのか、頑張って五年奉公の約束を果たし、お礼奉公として更に三年間務めた様です。ちょうどその頃に、私が誕生することになります。

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