一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

優兄の誕生と成長

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優兄の誕生と成長

 父は、明治二十六年生まれであり、その年代の中央大学法学部卒業生の大半は弁護士になることを目指すのが普通だったそうです。父の同級生も、殆どが弁護士になっております。それは、父も例外ではなく、子供が出来なければ間違いなく弁護士を目指していたそうです。

父が弁護士になった暁には、優兄も生まれておりませんので、私も理容師にはなっていなかったであろうと大袈裟ではなく、今でも思っております。

 父は、大学当時も随分と成績が良かったらしく、卒業間際に当時の総理大臣「鳩山一郎」の奥様「薫子」婦人から、巻物になっているお手紙を頂いたそうです。薫子婦人といえば、新聞の政治面でおなじみの鳩山兄弟の祖母にあたられる方であります。

 手紙の内容はというと、「卒業後は、鳩山家の秘書として是非来ていただけないだろうか。」という署名捺印まで押してあるもので、立派な手紙だったのを私も覚えております。何せ、父はその手紙をたいそう大事に、お宝として立派な額縁に入れて、壁に飾ってあったのを私たちは否応にも見せ付けられておりました。そんな貴重なお手紙ではございますが、現在どこにあるのかといいますと、父の死亡後、私の妻がゴミと一緒に燃やしてしまいました。な、なんで?

 まぁ、いまさら悔やんでみても、燃えたものが帰ってくることはございませんが、なんでそうなっちゃったのか?今でも持っていれば「お宝鑑定団」に出せば数百万の代物ですよ・・・・。すみません。当時を思い出してつい取り乱してしまいました。

 だいぶ話が横道に反れましたので、元に戻します。札幌の山鼻の道庁官舎に移り住んでから、大正六年六月十日優兄が誕生いたしました。それから三年が過ぎようとした頃、優兄の下に次男「秀人」が誕生いたしました。そして、父の一番下の弟である「勇七」(優兄の二歳年上)が同居。その頃は、五人家族と女中一人を雇って生活していたそうです。父はその時、若くして係長に昇格しておりました。

 昔は、家族が多いと当然のように、年上のお兄ちゃんが年下の弟の面倒を見るのが当たり前の時代です。しかし、優兄はというと、長男のくせに頼りがいがなく、小さい時から意気地のない性格で、遊びに行っては女の子に泣かされて帰ってくる始末。

 母も最初の子供を流産した後に、生まれた子供だったせいもあり、優兄を甘やかしていたそうです。そんな優兄を父は、人一倍厳しく育てていたらしいのですが、その成果は全く見られず、勉強が出来ないばかりでなく、しまいには学校で、みんなから虐めにあっていたようです。

 そんな中、優兄より二歳年上の叔父の勇七兄が、またこれが中々のしっかり者で、勉強の出来も良いだけではなく、山鼻小学卒業後、二中(今の北海高校)に入学し、(ちなみにその頃の公立中学校が、一中といい今の「南高」です。)野球部の応援団長をしていたそうです。そんな勇七兄の影響もあってか、優兄も学校では幾らか虐めも軽減されていたようです。

 しかし、勉強の方はといいますと、成績は一向に良くならなかったらしいのです。当時の学校の成績表は、五段階の評価になっており「甲・乙・丙・丁・戊」で表わされていました。

優兄の、成績表は「戊(ぼ)」が一番多かったそうで、そんな成績表を持って帰ってくる度に、父親に怒られていたそうです。

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