一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

友人の死と疎開

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友人の死と疎開

 私が四年生になったあるの日の日曜日の事です。私と中原君兄弟、そして同じ公務員官舎に住む五年生の村上君、そして名前も住んでいる所も知らない六年生の男子の計五人で、カラスの巣を取りに行こうと言う事に成りました。誰が持ちかけた話だったかは覚えていません、只の好奇心だったと思います。

 私の住んでいた家の前を斜めに横切った細い道を通っていくと、自殺で有名な「心中岩」と云う場所があります。私はその場所には行った事が無く初めての場所でしたが何か薄気味の悪い処で、下は断崖絶壁で我々のいる場所は少し広場になっていてカラスの巣は海を挟んで向かいの岩山(三十メートル位離れた処)に有り、巣の傍には親のカラスが何羽か飛んで居ました。

 初めのうちはその巣に向かって石を投げて居ましたが、ちっとも当たらず手も疲れましたので、休憩して、皆で色々な話をしていましたが、ふと村上君が居無いのことに気が付き、私が「村上君が居ないけど何処に行ったの?」と聞くと誰かが「あぁ、彼ならカラスの巣を取りに行くと言って、歩いて行ったよ。」と言われました。そこで、私は驚いて向かいの岩山を見た瞬間でした、彼が今まさに頭を下にて落下して行く様子を見ました。

 その姿が下にあった岩の間に落ちる瞬間まで、誰も目を反らさすことができませんでした。一言も語らず皆で顔を見合わせ、何も言わずに一斉に彼の家に走り出しましたのですから不思議なものです、以心伝心と云うものだったのでしょう…。

 直ぐに、彼の家に着いた私達は、彼の母親にその旨を申しましたところ、ひどく驚かれて、私達と一緒に(二つ年上の六年生の子は逃げて居りませんでした)浜に行き、漁師さんの船に乗って探しに行きました。

 私が乗った船が一番早かったのですが、落ちた場所を見逃してしまい、後から付いてきた船が「おおい、見つけたぞ!」と彼を見つけました。その船に村上君を乗せて岸に運びました。私の乗った船もその後に付いて行きました。

 私は、後から思いました。その時私が乗った船が、もし先に村上君を発見していたらと考えました。当然の事ながら村上君を乗せることになる訳ですから、私はその変わり果てた村上君を見ることになったわけです。もしも村上君の顔を見ていたら一生涯、私の脳裏に焼け付いて離れることはなかったでしょう。先に発見できなかったことが幸いだったとつくずく思いました。

 それにしても、人間の一生と云うものは一瞬で生死を分けるものであり、今迄一緒に遊んでいたはずの友達が、一瞬の間に無くなってしまうものかと思うとなんとも儚く空しいものだと思いました。(私は此の時の様子を高校生になってから、学校の文芸部より発行していた「想園」という名の年間誌に投稿した事が有りました)

 その後、村上君のお通夜と葬式には参列しました。一週間が経った次の日曜日に瞥察より呼び出しがありました。その事故の時にいた三人で警察に行き、その時の話を一人一人別々の部屋で聞かれました。今思うに我々の誰かが彼を突き落したのではないかと云う疑いもあったのかもしれません。

 約一時間くらい話を聞かれた後に「又、あとで話を聞きたいので、その間映画でも見て来なさい」といわれ、映画館に入れてくれました。その頃の映画は戦争状態のニュースみたいなものばかりで我々子供たちにとってはちっとも面白くなく、さっさと映画館を出て警察署に戻りました。

 警察官は「もう帰って来たのか、それでは代表して誰かがこの書額に名前と捺印を押しなさい、拇印で良いから。」と言われましが、誰が書くのか揉めましたが結局同級生の中で私が一番生年月日が早いということで署名し拇印を押しました。

 拇印は、初めての経験なので何だか犯罪者扱いされた気分で、自分が代表になったことをなんだか損した気分になってしまいました。今でもあの時の様子は手に取るかのように鮮明に脳裏から忘れることはありません。

 そのうち戦争も不利な状況となり、室蘭も危なくなってきたので祖父のいる美幌に疎開することになりました。

室蘭への空襲

 昭和二十年七月十四日の夜明け、室蘭市民にとって恐怖の一日が始まった。アメリカ海軍機動部隊より室蘭上空に三十機以上のグラマンなどが次々と飛来し、午前と午後の二回に分けて船舶、鉄道、市街地に銃爆撃が加えられ、港では二十隻以上の船が沈められた。午後四時すぎに空襲警報がようやく解除され、恐怖の一日がやっと終った。室蘭は、高射砲等の兵器製造の工場が建ち並ぶ重工業の町であったがため攻撃目標とされた。しかし、恐怖は一日では終わらなかった、翌日の朝から空襲警報が鳴り響き市民は死にもの狂いで防空壕などに避難した。午前9時30分、アメリカ海軍艦艇による日本製鋼所室蘭製作所・日本製鐵輪西製鐵所の二大軍需工場に対して、約1時間にわたり艦砲射撃が開始された。艦砲は市街地や社宅街にも容赦なく撃ち込まれた。路上には無数の死体がころがり、一瞬のうちにあたりは地獄と化した。この二日間での一般市民の被害は、合計で死者約四〇〇人以上、重傷者一〇七人、行方不明者十五人となった。

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