一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

室蘭へ帰郷

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室蘭へ帰郷

 約二年くらいの美幌暮らしも終わり、汽車に揺られながら、やがて、室蘭の街並みが車窓から見え始めました。ちょうど、本輪西の工場地帯に差し掛かったころ目を疑う光景が飛び込んできました。以前は、高い煙突が三本並んでいたのがですが、その一本が根元から完全に無くなっているではありませんか。後で聞いたところ、艦砲射撃により直撃されたのだそうです。

 そして、その艦砲射撃で、幌別で暮らしていた父の一番下の妹の夫、神田さんが隠れていた防空壕が直撃され即死の状態だったそうです。

 駅に着いて、海岸町から浜町、幸町、本町、栄町、船見町と歩いている途中、爆撃でやられたらしく列なって建っていたビルや家が、間隔を空けて建っていました。室蘭も爆撃で相当やられたのだなと思っていたのですが、そうではなく、爆撃による延焼を防ぐ為にわざと間引きをしたのだそうです。戦争のせいで街並みがすっかり壊れてしまいました。

 やがて我が家に到着しました。父は、私たちの留守の間に家の修繕をしてくれていました。アメリカ飛行機(グラマン)の砲撃を受けたのだそうです。機銃砲からから飛んできた機銃弾二発が、友人の中原進君の家の玄関を横切り私の家にぶつかり、一発が壁を破って部屋に侵入してきたそうです。又、もう一発が押入れの壁に当たり、下の階の押入れに降下していったのだそうです。丁度その時、下の階に住んでいたおばさんが、家の前の防空壕に入るのが嫌で押入れに隠れていた時で、そのおばさんの目の前に突き刺さってきたそうです。

 その家は、市営の公団だったのに父が上役だったせいか、子供部屋や自分の書斎を増築していました。子供部屋の隣にはお風呂も作ってあり、銭湯に行かなくてよくなり、とても便利でした。又、壱階の屋根に物干し台が作ってあり、父の部屋の窓からその屋根の上に洗濯物を干せ、そこから遠くの追直しの浜の先端の岸壁が見渡せました。

 そのような生活を送っていると、しばらくして戦争に行っていた優兄が、帰って来ました。

 優兄は、理髪店を営んでいたのと、「肋膜炎」を患ったことがあるため兵隊に成ることを避けるのに、昭和一八年頃に日工の水道部に入社したそうです。しかし、一年足らずで召集令状が送られてきたらしいです。

 当時の日本の徴兵制度は、満二十歳(1943年からは十九歳)の時に、徴兵検査によって身体能力別に甲-乙-丙-丁-戊の五種類に分けられます。甲が最も健康体の標準であり「甲種合格」とされ、ついで「乙種合格」、「丙種合格」の格付けがされます。

 優兄は、「丙種合格」であり、「肋膜炎」経験者なので召集されることはまず無いのですが、戦争が不利な状況になるにつれ、兵隊の数も減ってきたことから、召集されることとなり、結局、旭川第五連隊に付属となりました。その間、優兄のお店は、妻の登美義姉が一人で切り盛りし守っていたそうです。

 やっと終戦となり、優兄も無事に帰ってきたのですが、当時優兄の腕前は「室蘭でも五本の指に入る上手さだ」と持て囃されていたせいか、増長し(しだいに高慢になること。)我儘で短気。自分が気に入らないお客さんは断る、寝たふりをしてお客さんが起しに来ても布団に潜り込んで起きようとせず、義姉が起こしにくれば逆上し、卓袱台をひっくり返しては、殴る蹴ると暴れる、始末に負えない人になっていました。

 その頃、優兄のすぐ下の弟である「秀人」兄は、やはり軍隊に召集され岩見沢の陸軍部隊に所属され、終戦後、無事帰宅すると召集前に務めていた職業紹介所に勤務し、父の紹介で桑園で製麺所を経営していた方の娘とお見合い結婚をしていました。

 私も三学期からは、元の武陽小学校に戻り、前と同じ五年四組みに入りました。もうその頃は、体格も良くなりクラス対抗の相撲大会で五人抜きができる位になっていました。その最後の五人目は、私がいつも虐められていた上山君で、うっちゃりで投げ飛ばしたものだから、それ以来虐めは全く無くなりました。

 その後は、順調に六年生になったのですが、小学校卒業後の中学校進学は今迄受験でしたが、無試験で入学できるようになりました。以前は、六年生のあとは直ぐに中学受験する人や、小学校に二年間の高等科がありそれから受験の二種類の選択肢がありました。中学生は五年間あり、その後高校、大学と進学するか、高校には行かなくても大学の受験を受けることはできました。

 私たちの年代になって、中学校が義務教育になり(六・三・三の時代)受験しなくても入学できるようになったことは、中学受験の勉強をしなくても済むぶん得したような気がしました。

 私が六年生になって間もなく、優兄に父が「子供達の面倒は我々だけでは難しい、私も兄弟の面倒を看て来たので長男である優もこれからは、子供達三人(恵子・竜人・日人)の面倒を看なさい」と命じました。それで、舟見町の実家には両親と、私の下の弟二人の康臣と邦光、そして女中(お手伝いさん)の五人での生活が始まり、理髪店をやっている優兄の家では、私を含めた三人が、優兄夫婦のお世話になることになりました。

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