一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

家系図

まえがき > 家系図

家系図

 私が何故、理容師としての一生を送ることになったのか、まずそれを語るには、欠かせないのが家系図だと思う。私の父(瀧吉)の話によると遠い先祖は「豊臣秀吉」だそうだ。

 それも満更嘘ではないようで、三十年も前だが、私の店に来た、そっちの話にやたらと詳しいお客さんも言っていましたし、後に「貴方の御先祖を探ります」という本が出回ったときに、買って調べてみた時にも、「加納という苗字の先祖は豊臣秀吉である。」と書いてありました。

 だからと言って、そんな昔の家系図を知る由もなく、まずは自分の記憶の中で間違いの無い家系図から書くことにいたします。

家系図

 私が確信のもてる最初のご先祖は、刀鍛冶職人である初代「鹿野力次郎」から始まります。

 その名前が、代々受け継がれて、四代目「鹿野力次郎」と、フユとの間に長男として生まれたのが、私の父「瀧吉」である。

 母は、「鹿野常次郎」と、ハルとの間に次女として生まれ「ハマ」といいます。この私の祖父である鹿野力次郎と、常次郎は兄弟であり、私の父「瀧吉」と「ハマ」は、従兄妹同士の結婚ということになります。

 そして、その二人から七男として生まれたのが、私であります。

 現在の「加納」という苗字は、後に瀧吉が調べたところ、最初に北海道へ渡って来た先祖が、名前を名乗ったときに「加納です。」と言ったところ、相手が勘違いして「かの」と聞き間違えた時から「鹿野」となったらしく、そんないい加減な話を知って納得のいかなかった瀧吉が、何度も役所に足を運んでお願いし、やっと「加納」に訂正してもらったらしいのです。

 しかし、それは本家にだけ認められたことであり、それ故、今も他の親戚一同は「鹿野」の姓を名乗っております。

 両親は、道南の江差町で生まれました。二人は同じ部屋で生まれ、幼い頃から兄妹のように育てられたそうです。先祖は、元々、富山県の出身で、私の曾祖父の時代に江差に来たらしく、その頃の鹿野家は、漁師を営んでいたそうです。

 母の話によると、母方の家は、網元で普通の漁師よりも裕福な生活をしていたらしく、若い頃は容姿も綺麗なうえに、いつも素敵な着物を身に纏い、女中二人を付き添わせては、街中を「しゃなり、しゃなり」と歩いていたらしく、当時は「江差小町」と持て囃されていたそうです。

 その頃の自慢話を良く私たちにしておりましたが、誰もその時のことを知る者がいませんので、勝手なことを言っていたとしても、母が喜んで語っている顔を見るのは、子供である私たちも喜ばしいものでした。

 母は、二人姉妹の妹で、函館高等女子中学校を卒業し、姉の方はといいますと、早くに結婚をして二人の男の子(真一と公健)を儲けましたが、不幸なことに二人目の子の出産のあと、直ぐに他界してしまいました。

 父の瀧吉の方は、母方の家に比べると、普通の漁師だったそうですが、当時は鰊が大漁に取れていたせいもあり乏しかったというわけではなかったそうですが、瀧吉を出頭に男兄弟四人、女姉妹三人の大家族であり、母ほど裕福な生活ではなかったようです。

 父は幼い頃よりとても頭の良い子供だったそうで、勉強がとても好きだったせいもあり、長男のくせに幼少期からすでに漁師には成りたくないという思いが強かったそうです。

 函館高等中学校を卒業後、単身東京に上京し、その後は、独学で東京中央大学法学部に進学、見事に卒業を果たしております。

 その頃には、もうすでに二人は交際をしていたそうで、将来を誓い合っていた仲だったそうです。

 そして、父は大学を卒業後、更に勉学に励み司法試験を受験したそうなのですが、失敗してしまったようです。ちょうどその後、母が妊娠していることがわかったのですが、その子は、流産になってしまったらしく、女の子だったのですが、名前は付けなかったそうです。

 しばらくして再度、子供を授かったのをきっかけに、二人は結婚をしたそうです。父は結婚を期に司法試験を諦め、北海道に帰郷して、道庁に就職し公務員となりました。そして、札幌市山鼻にある道庁宿舎に移り住むことになったのです。

 そこで、私の理容師人生において、大きな関わりを持つことになる、長男の「優」が誕生いたしました。

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional