一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

戦争勃発と虐め。

優兄の店と小学校入学 > 戦争勃発と虐め。

戦争勃発と虐め。

 一家先生は若さも有り、筋骨隆々で質実剛健の逞しい方で、腰には幅の広いベルトを締め、主に菅原道真(スガワラノミチザネ)の「九月十目(去年の今夜)」とか、頼山陽(ライサンヨウ)の「川中島(鞭声粛々)」や、西道仙(ニシドウセン)の「城山(孤軍奮闘)」と言った詩吟を我々に教え、朗々と吟じていました。この詩吟が後に私と深い関わりを持つことになります。

 その他にも、色々と戦争の話をしてくれたり、男の友情や兵隊さん同士の事、戦争に何故、日本国が参加をしなければいけなかったのか等を、我々生徒に判り易く教えてくれました。

 その後の終戦の時には、戦争そのものが悪い事であったということ。物資の少ない小さな国である日本が、大国を相手に戦争を始めるなんてとんでもないことで、初めから負け戦であることは分かっていたのに、国民をだまし、天皇陛下の御言葉だということで、多くの国民をこぞって戦争に参加させ犠牲者を出したこと。

 当時の私のような子供達は、政府にだまされていたのかどうかの判断はできませんでしたが、当時の日本国は、支那事変(日中戦争)や日露戦争で負けたことがなく、武力はアメリカ・中国・ソ連とは対等である。いや、それ以上なのだと教えられていたのですが、蓋を開ければ戦闘機や軍艦その他の兵器の所有数などは、かなり劣っていたこと。戦線は不利な状況なのに、いつまでも対等に戦っていると言われ続け、教えられていたことが嘘の情報だということがわかったときには、頭に血が登った事は確かでず。

 後から冷静に考えれば、当時の状況下ではそれもやもえない判断だったのかも知れませんが、裏切られた代償はあまりにも大きく、戦争経験者の心には今もなお深い傷跡が残っていることでしょう。

 私が、小学校に入学した年は、昭和十六年であり、国民学校に変わった年でした。そして、その年の十二月八日に大東和戦争(太平洋戦争・第二次世界大戦)が勃発いたしました。

虐めに合う

 それからの生活は、以前とは違いました。全てが軍隊優先で質実剛健主義の国となり、教科書もすべて軍国主義の内容に変わりました。制服というものはなかったのですが、国民服にランドセル、制帽をかぶり記章等を着けて学校へ行くのが普通でした。しかし、それらを買えない子供さんたちが大勢いました。そういう子供達は、着物姿で風呂敷を持参して登校していました。

 私は、父が公務員ということで恵まれていたせいか、全部新しい物を買い揃えてもらって登校していましたが、そのことが嫉妬心を植え付けてしまったのか虐めの対象になってしまいました。

 四年半は、この武陽国民学校で過ごしましたが、最初の入学の時は、一年四組になり隣の席の山本滋君と一番の友人に成り良く遊んでいました。彼は、ビヤホール店の長男で、どちらかというと、おっとりした性格で真面目なお坊ちゃまタイプの子供でした。成績は私よりも上だったと思います。

 そして、忘れもしない二年生になった頃から、今でいう虐めに合うようになりました。

 普段は、私から漫画の本を借りたりしていた子で、以前は仲が良かったのですが、クラスでは一番の暴れん坊で、私より背が高く体格の良い、いつも五人位の子分を連れて歩いている左官屋の息子がいました。

 左菅屋さんは、当時余り収入が良い時代ではなかったし、その子供は特に兄弟も多く貧しい生活をしているようで、服装は継ぎ接ぎだらけの着物で、勿論、制帽やランドセルは持っていなく、風呂敷持参と言うこともあり羨ましさが高じたのだと思います。

 その子の仲間も大工さんやペンキ屋さんの息子等で、同じく収人が少ない時代の職業の子供達でした。その五人組で、いつも私は学校帰りを待ち伏せをされ、私の周りを取り囲み、帽子を取りあげては、私が取りに行くと別の方向に投げられ、盥回しにされた挙句、最後は道路の横にあった溝川に捨てられ「ヤーイ・ヤーイ」と囃し立てながら去って行ったり、又有る時は、服を掴まれボタンをちぎり取られたりしました。

 虐められるのがイヤで私は、日を替えては、別の道から帰宅するのですが、どうゆう訳か、必ずそこには彼らが待ち伏せているということが何度も繰り返されました。

 それでも私は、一度も涙を流したことはありませんでしたし、母に心配をかけまいと告げ口をすることもありませんでした。川に投げられて汚れた帽子は自分で洗い、もぎ取られたボタンや帽子の記章はこっそり買ってきて自分で縫いました。

日の丸

 戦争も、はじめの頃は、みんな「勝った・勝った」と有頂天になり「兵隊さん万歳・万歳!」と叫び、旗行進や提灯行列をしたりして、将来は兵隊さんになって戦争に行くのが英雄であると思っている時代でした。

 私も、霞ヶ浦空港隊の予科練に入るのが夢でした。其の頃は、戦争に行く事が名誉であり、私の記憶の中ではそれが当たり前だったと思っておりました。

 今では、よくその時代のテレビドラマなんかで、赤紙が来て、兵隊に入隊する姿を見て母親が涙を流して「絶対に死ぬんじゃないよ、絶対生きて帰ってきてね」と子供を見送る場面がありますが、当時はそんな親など見たこともなく、むしろ大日本帝国のため、しいては自分たち家族のためなのだと本望に思っておりました。



powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional