一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

理容の国家試験

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理容の国家試験

 いよいよ学科の試験が苫小牧で行なわれる事に成りました。当時の苫小牧は室蘭よりかなり小さな町で人口も六万人位でした。

 駅を降りたら真っ直ぐには海が見えました。その路を真直ぐに歩いて行き、三丁位してから左に曲がり、又三丁位行くと小学校が有り、其処が学科試験場で学校は休日でしたが何せ小学校でしたので椅子も机も小さく窮屈でした。

 でも当日会場に試験を受けに来た方達は、百人以上居りました。何せ理容と美容は学科試験は同じ問題でしたので美容の方の方が多かったのでしょうがそれにしてもずこい人だなあと思いました。

 特に机の高さが低く試験問題を読んだり、解答を書くのには苦労しました。其れでも間題が来て試験が開始されると答えを書くのに夢中に成り狭さは気にならなく成りました。

 私は全間題を十分足らずで解き揚げ、一応書いた解答を見直し、間違いが無いと確信をして提出して自分では(全部百点だろう)と自信を持って居たのですが、後から聞きますと可也間違えが有った様で百点は三科目くらいで、後は九十点位だったそうです。余り自信過剰はいけませんね・・・・。

 その日の試験場で、私が余りにも早く試験場を出るものですから隣にいた美容師志望の綺麗な女性に声を掛けられ「貴方、随分出来そうな人ですね、今度答案用紙を私にも見せて下さらない」と声を掛けられましたが、私も大人気ないと云うか(夜も寝ないで勉強をして覚えたものを簡単には他人の、しかも顔も知らい人に教えられるか)とばかりに、首を横にして知らない振りをしてその人の傍を離れました。

 彼女は顔にも自信が有り、大概の男性は振り向くと思ったのでしょうが、当時私は、静枝さんと付き合いも有ってかその気にはなれず答案は見せ無かったのですがその人と仲良くしたければ教えて居たかも知れませんね・・・・でもそう云う人はきっと又男の人を騙しやすい人に成るのでしようね。

 十月頃、漸くして学科の国家試験の発表が有りました。驚いた事に百人も受験したのに合格者はたったの十人だけ其れも室蘭からだけで、しかも理容だけしかいないのには私も些か吃驚でした。

 その後、十二月二十三日に札幌の理容学校(出来たばかりで生徒さんは居ましたが、未だ卒業生は居なかった)で実技試験行われました。私の兄気を頸にした中村正九先生を初め、私の知らない札幌では有名な先生ばかり十人位で審査をして居ました。

 審査内容は頭にバリカンを入れ、刈上げ、襟を剃り、頭は洗わず顔を剃り、後は頭を綺麗にセットするという流れです。私はモデルに兄嫁の妹の旦那で佐々木友也さんをモデルに頼み連れて行ったのですが、室蘭の講師連中が勉強不足と云うか国家試験の内容を良く理解して居なかった為、私等は髪の毛をうんと伸ばしに伸ばし、おまけに顔も髭面で連れて行ったので時間ばかり懸り、顔を剃る段階に成ったら、私の名前入りの専用タオルが一枚もスチーム器の中に無く(結局刈り終わったのが私が一番後だったのです)仕方が無いので流しに使い捨ての冷たいタオルを顔にかけ(全然柔らかくも衛生上も良くない)、さも顔を蒸したかの様に見せ、固い髭を力任せに剃りましたが時間が無いので可なり髭は残っていたと思いますが、それを点検をする暇も無く、セットをする道具も持って行っては居ないので、只櫛で解かしただけの仕上りでした。

 其れも時間一杯でしたので試験には落ちたかも知れないと自分では感じました。友人連は中島公園の傍の旅館に泊まりましたので其処まで送りに行き(当時は薄野より真っ直ぐ中島公園まで電車が走って居ました。)兄貴達はその足で直ぐ室蘭に帰りましたが、私は桑園の親戚の家に一泊し(桑園迄も矢張り道庁前より電車が走って居ました。)次の日の午後より室蘭に帰りました。

 家に帰って驚いたのは、此の年末の忙しい筈の十二月二十四日に(其の頃はクリスマスは余り関係は有りませんでした)店を休んで誰も家には居ないでは有りませんか、私は何か有ったと思い、白井家の実家(登美さんの実家で其の頃、私の父の世話で私達の住む処を栄高に向い二丁程云ってから右に回り真っ直ぐ栄町の一番坂上迄登ると突き当りで中浜の崖の上に土地を購入し家を廼て住んで居ました)に走って行きました。するとそこでは、お通夜が行なわれている最中でした。

 ビックリして私は、兄貴達に尋ねると幸一さんという澄子さんの弟さんが事故で亡くなわれたそうす。戦争で満州に居た時、終戦を迎え直ぐにソ連に連れられて行かれ、私が中学三年の頃、漸く日本に帰されましたが其の頃は共産主義に洗脳され、兄貴と毎日の様に店で理髪の消毒用のアルコールを飲み、毎日の様に激諭を繰り返していました、やがて漸く目本の現状に成れて来たので結婚をし食料営団に勤めトラックの運転手をしていたそうですが、白老あたりで運転に疲れたので、助手に運転を代わって貰い、荷台に積んで居た米俵の上で寝ていたのそうですが、其の変わって貰った運転手のミスで、道路脇に転落し彼が転げ落ちた上に米俵とトラックが覆い被さってきたそうです。即死だったようです。

国家試験合格祈念で撮影した写真

 兄は、次の二十五日も「葬式のため一日お店を休む」と申しましたので、此の忙しい時に休むのはお客さんにも悪いし売り上げももったいない思い「何なら僕一人で店を開けても良いか?」と聞くと「お前がそうしてくれれば助かるがお前一人で大丈夫か」と言われ「僕だってダテに国家試験を受けに行った訳では無い、もうやや一人前ですので出来る範囲で営業して見る」と言ったのですから、今思えば大胆で世間知らずというか向こう見ずとでも言いましょうか。

 其れでも朝起きると直ぐに店を掃除しお客さんを迎える準備をしていましたら、案の定、朝からお客さんで溢れる位の大繁盛、只まだ私がやった事がない赤ちゃんや、角刈りのお客さんも見えましたが、お客さんが「お兄ちゃん遣っても良いよ、少しくらい可笑しなスタイルに成っても構わないから」と励まされおまけに梅村君が頭を刈りに来て、其の後三時間位も下掃き等を手伝ってくれました。結局一人で一日頑張り二十五人ものお客さんを遣ったのですから本当に我ながら天晴で、褒めてやりたい位のものだと思いました。

 その次の日からは、兄貴夫妻も帰ってきて一緒に働き、大晦日まで休まず営業出来たのですから家では大助かりだったと思います。

 其の御蔭もあってか、実技試験も合格(全員で六人でした。)、昭和二六年二月に理容師の免許書が交付されました。その時で私は、まだ高校二年生でしたので自分でも、少し自慢でした。

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