一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

私の最盛期

バイクの盗難事件 / 私の最盛期

私の最盛期

 この頃の店の従業員は、山本義一君が辞め、又藤木宏行君も身体を壊して辞めました。その変わりと言いますか彼の弟光民君が見習いとして本店に勤務いたしました。又其の後には長谷孝誠君(この人は優兄の友人で室蘭時代に仲良くしていた押切さん「芦別頼城で移転開業」の弟子で東京で就業して居たが札幌に帰ってきていて遊んで居たので内で働かないかと言う事で入った人)や成田敏君・中村勝君が入りましたが、一年くらいで長谷君・成田君が辞めました。長谷孝城君は再び東京へ出て行き、成田君は結婚して琴似山の手にお店を開店しました。

 場所も良く、奥さんと二人で頑張り繁盛しておりました。一階建で下はお店だけで、二階が住宅でした。彼は熱帯魚が好きで大きな水槽と中位の水槽が六個、小さいのが三個と大変多くの魚を飼って居ました。私もその影響で熱帯魚を飼い始めやはり中位の水槽三個、小さいのが三個まで増えました。

 その頃私は青色帳簿を付けておりましたので、成田君の店の帳簿と阿部千万ちゃんの帳簿を見てあげました。長谷君はハイヤー会社に勤務して居たお兄さんが急に亡くなった為、又札幌に戻ってきたのですが家族会義の結果兄嫁さんと一緒になり、結婚致しました。私は其の結婚式にも招待さてました。

 その後、彼は奈良で理容店を開店し大変繁盛し誘たらしいのでずが兄嫁だった嫁さんがどうしても実家の有る札幌に帰りたいとのことで、又々札幌に舞い戻ってきました。どうしても彼は理容店を開きたかつたのでずが、奥さんの親に説得され「私の目の黒い内に」と家業の看板屋を手伝う事に成り、後には専務に成ったそうですのでどちらが良かったのかは解かりません。

 私の店(支店はその後も従業員の出入りが忙しく、多い時は一年に十人位も入れ代変わった事もあります。店は順調で道銀のお客さんだけでも多い時には三百人位も来てくれた事がありまして、理髪料金は給料日払いで自動的に預金通帳に振り込まれました。

 又ビルの中の会社や近所の会社には割引チケットを出し(元々その近辺より高い料金を設定し、そこより少し割り引く)給料日払いにして集金に歩きました。その他には、早朝割引や景品付き抽選券を出したり等、色々と客集めを試みました。又宣伝も日本劇場を始めとして名画座・ニコー劇揚のスライドで宣伝広告をしましたしチラシ等も時々配りました。

 この頃は、私の絶頂期でも有り、些か頭に血が上って居たかも知れません。良く北宝ビルの屋上に行き札幌市内を眺め(その頃は、丸井や三越デパートは五階建てでした)自分の頭に描いた札幌の地図に、自分の描いた構想を(此れから出したい支店を地図上に丸印をつけて)悦に入って居たものです。

 又結構従業員を薄野へ飲みに連れていったものですが、私は結構もてました。お金は割りと有るし皆にマスターとか社長とか呼ばれていたのと、おまけに室蘭時代に覚えた手相人相を見てあげると、的面に当たり、其れを武器に女の子達に気に入られたようです。

 ある時には、ロータリークラブといった踊れて飲めると言った処で、知り合った女性に交際を求められた事も有りましたが、あまり好きなタイプで無いため適当にあしらい嘘の名前と電話番号を教えた事もありました。(彼女は私に名詞を呉れていました)

 その後、其の時一緒に行っていた私の店の従業員が、自分の好きなタイプの人がその女性と一緒だったので、私の名前を使い私が貰った名刺の電話番号に電話をかけ「又お遭いしたいのでこの間の彼女と来てくれ」と申し込んだのですが「私が来なけれぱ連れて行かない」と断られたそうです。

 当時本店の取引銀行は北洋銀行でしたが、丸山と言う人が集金に来ていました。この人はマジックが得意で良くあちこちで見せて居たようです。この人と良く飲みに行ったことが有りましたが、ある時に入ったバーで(彼は其処の常連だったらしい)席に付いた女の子二人を誘い、私の車で大倉山の麓(スキーのジヤンプ台の有る所より少し下)の道路を走り盤渓へ行くトンネル手前に車を止め、札幌の夜景を眺めて居ましたが、彼が一人の女の子と後ろの座席で宜しくやり始め、私にも「やれやれ」と合図を送っていましたが、私は酔いも覚めていましたし、あまり好みでも無かった性もあり、その気になれずに居ましたら、彼も諦めて彼女たちを送り帰すことになり彼もガッカリしてたようでしたがそんなこともありました。

私の最盛期 > 彼女との再会

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