一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

私の誕生と幼年期

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私の誕生と幼年期

 私は、優兄とは十七歳離れています。私のすぐ上には龍人兄(三歳年上)で大人しい性格、その上に、只一人の姉「恵子」(龍人兄の二歳年上)、この姉が、お琴やお花を習っていた割に男まさりで、私は良く泣かされたものです。大きくなったら仕返しをしてやろうと、常日頃からずっと思っていました。

 恵子姉の上には、三人の兄がいたらしいのですが、当時は、戦争などの時代背景の中で、栄養不足や病気か多く、医学がまだ進歩していなかったという環境もあり、一人は七歳のころに小児麻痺で亡くなり、あとの二人は三歳まで生きられなかったらしいのです。

 私が、二歳になったころ、父の転勤先が今度は、室蘭になりました。室蘭で始めに住んだところは、栄町十八番地というところで、一軒家を借りて住んでいたそうですが、私の中の記憶は全くございません。

 話によると鳩山家の別宅がそばに有ったそうで、丁度崖の上に建っていて、中所とか電信浜の海が見下ろせたそうです。この時の住所が、戸籍抄本によると私が結婚するまでの間、私の本籍でした。

 それから二、三か所栄町内で引越しをしたようですが、その頃の記憶はわずかに残っている程度です。私のわずかな記憶の中での最初の家は、外から梯子を使って登り窓から出入りしていた様な気がします。何故、ドアから入れなかったのか、なんとも危険な家に住んでいた記憶がございます。

 次の家は、そこより斜め向かいにあった木材店さんの横の階段を降りて二軒長屋の左側にあったと思います。よく近所の子供達と遊んだ記憶があります。

 最後は、舟見町に有った市営住宅に引っ越す事に成ったのですが、そこの記憶だけは、はっきりと憶えており。市営住宅だけに人も沢山住んでいたこともあってか、友達も大勢出来た記憶があります。その中でも、特に中原進君や中原孝一君とは、いつも一緒に遊んでおりました。

 子供ながらに、墓地を通ってまだ奥にある遠いところまでザリガニを取りに行ったり、海にもぐって海胆や貝等を取ったり、近所で隠れんぼや鬼ごっこをして遊んだり、毎日がとても楽しいかったことを思い出します。

 その時の家が、戦後まで両親が住むこととなった家でした。

 私が、四歳くらいに成った頃、美幌から祖母が遊びに来ていて一週間位経ち、そろそろ帰宅する折、私に向かって「日人、私と一緒に美幌に遊びに行かないか?」と誘われました。

 私は直ぐに「うん良いよ、一緒に付いて行くよ」と、両親や兄弟達と離れるのが寂しいとも思わず、何も相談をせずに返事をしてしまったのですから、今思うとかなり大胆な子供だったのでしょう。

 結局私は祖母と一緒に汽車に乗って美幌に行く事と成りました。当時、美幌迄は岩見沢と旭川の二回乗り換えして、約一日半も掛かるのですが、今まで汽車での旅は、物心付いた時からは、始めての体験ですので、退屈もせず楽しい旅でした。

 やがて、美幌の駅が見え、降りて辺りを眺めましたところ、思っていたよりも、立派な商店街が立ち並んでたのを憶えております。その商店街の並びに、父の姉の嫁ぎ先である、尾嶋さんの店舗兼住宅がありまして、途中そのお店に寄って行くことになりました。

 そのお店は、木造なのですが三階建てでとても大きな家でした。一階は店舗で食糧品、雑貨、飲料水、お米、お酒等を売っている、今でいうスーパーマーケットのようなお店でした、二階は住居で、三階は通り側に客間(二間続きの十畳間で、立派な床の間も付いていました。)、後は商品置き場の様でした。

 そこの長男の方が、動物を飼うのが趣味だったとみえ、お店の裏には馬と牛が二頭ずつ、その他に横綱を張っていたという、大きな土佐犬が一匹いました。この犬が大酒呑みで、軽く一升は開けるのだそうで、私は恐ろしく近寄ることはできませんでした。

 その犬の恐ろしさは、今でも忘れられないくらい印象的でした。そこには、一時間くらい滞在し、私は祖母に連れられ、祖母の家に向かいました。

私の誕生と幼年期 > 美幌での思い出

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