一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

美幌での思い出

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美幌での思い出

 当時、美幌の街は、新市街と旧市街に分かれていました。新市街は、新しい駅が出来たため、その周辺に商店街が出来ていて、大変賑やかに成った様です。今では、新市街と旧市街という堺はなく一緒になっていますが、祖父母の家は、そこの市街地の中でも一際大きな家で、敷地はかなりの広さでした。

 当時は、土地はタダ同然であり、価値などほとんど無く、家が財産だと言われている時代でした。祖父母の家は、半町四方位の広さで、三方道路で、隣の一段低い敷地には、お寺がさんがありました。

 丁度、家の廊下やトイレの窓からは、沢山のお墓が見渡せたのを憶えております。夜、慣れるまでトイレに行くのが、とても怖かったことを思い出します。

五軒長屋

 大きな家の横には、お稲荷さんのお堂に行くまでに沢山の鳥居が連なった小路があり、そのお堂の裏には、物置があり、その中には冬に保存食となる漬物が置かれてありました。

 庭には大きな池があり、その池には橋が掛かっていて鯉や鮒が泳いでおり、その周りには沢山の杏子の木や梨の木、サクランボの木やグスベリ等が成っておりました。よく杏子の木に登り、美味しく食べたものです。

 家の表道路を挟んだ向かいの敷地には、お稲荷さんへ繋がる鳥居の小路を挟んで、両方に祖父が所有していた五軒長屋が並んでおり、そこには、向かって左側を日本人、右側には朝鮮人が住んでいました。

 その他にも、割烹屋のような家を貸していて、私はよくその家に家賃を貰いに遣いに行かされた記憶がございます。

 そんな大きな屋敷に連れてこられたのですが、来る前に両親からは、「祖父は厳しくて恐い人だから、きちんと云うことを聞くのですよ」と言われていましたが、私にはとても優しく、物静かな御爺ちゃんという印象でした。

 近所の子供達とも仲良くなり、特に朝鮮長屋に住んでいた、通称(オンジ)とあだ名で呼ばれていた子供が私にべったりでした。当時の日本人は、朝鮮人を格下としていた見ていた事も有り、私が大家の孫という事も有ってなのか、オンジは私の子分的な存在でした。

 他にも私と仲良くしてくれた友人五、六人がいて、何時も一緒に行動しているうちに、いつの間にか私がその中で、餓鬼大将のようなリーダー的存在に成っていったのですから不思議なものです。

 そのうち五歳位に成ったころ、網走の職業紹介所(現在のハローワーク)に勤めていた勇七夫婦が、美幌に遊びに来ました。その頃、私の叔父である勇七兄は、近藤家に養子に入っており近藤勇七と成り、結婚をしていました。

 奥さんは、気立ての良い、中々の美人でした。数日滞在しているうちに私のことを気に入ったらしく「網走に一緒に行かないか?」と言われました。この時も、あまり深いことは考えもせずに「良いよ」と軽い返事をしてしまいました。

 今度は、叔父に付いてくことになり、一緒に綱走の近藤家に行きました。網走は美幌から近く、一時くらいで着いてしまったような気がします。叔父の住んでいる街は、道が狭く、細長い印象が残っております。そこの官舎に夫婦二人で住んでいて、子供が出来ない為、私を養子にしたかったようです。

 もし、私が近藤家の養子になっていたなら、今頃は理容師にはなっておらず、多分、大学に進学し公務員にでもなっていて、私の入生も大きく変っていたと思います。

 でも私の母が、断固として養子には出せないと断ったので、彼はしょうがなく、一番下の妹の子供を養子に貰い、その子は中央大学まで出してもらったそうなのですが、養父である勇七兄が死んだ後でも、養母のことは看てくれなかったそうです。

 私は、その家に二か月位いて、また美幌の祖父の家に戻ってまいりました。そして、合いも変わらず餓鬼大将だったらしく、ある時、家の横に有った小屋の屋根に上がって、昼寝をしていた時のことです。

 学校のそばに住んでいたこの辺りでは、有名な悪餓鬼が私に向かっれ小石を投げつけたのです。それがものの見事に私に額に命中し、瘤が出来ただけではなく、おまけに血が出てしまい顔まで流れてきた時は、私も流石に泣いてしまい、祖母に介抱してもらいました。

 その後、石をぶつけた相手とは、決闘をして、腕にかみついて泣かせて勝利した事も有りました。

 私の祖母は、博打が好きで毎日の様に家には、五・六人の人を集めては花札賭博(お金を賭けて)をして居ました。その博打をしない日は、お寺参りをする習慣だったらしく、私は必ずお伴をさせられました。

 毎回、同じお経を聞かされているうちに、経本を三冊くらいは暗記してしまいました。今では全く覚えてはおりませんが、経本を見ながらですと幾らかは、昔を思い出して読める様です。当時は、よくお寺のお坊さんには、弟子にならないかと言われたものです。

美幌での不思議な体験

 私が叔父の家から戻った頃だと思いますが、続けて妙な体験をいたしました。その一つは、午後五時半頃だと思います、未だ明るく友達数人と外で鬼ごっこをしていた時です。誰かが「あっ人玉だ」と叫んだのでその方向を眺めたところ、オレンジ色に鈍い光を放った、直径十五センチ位の円い球が少し尾を敷きながらゆっくりとジグザグに飛んでいました。

 それは、家の隣のお寺辺りから飛び出してきて、長屋の方に消えていったのですが、やはり人玉(魂)だったのでしようか。只、私と友達も大勢いたのと、まだ明るかったせいか、恐ろしいとも思いませんでした。

 その数日後、今度は恐い体験をいたしました。その長屋には、祖父の妹であるカンコ叔母さんが住んでいたのですが、この人は身体が弱く何時も寝てぱかりいて、私は二三度会ったことは有るのですが余り話をしたことがありませんでした。

 その日は、いつものように祖母が、近所の人達と花札賭博をしている最中でした。午後三時位だったと思います、私はその横の部屋で、ウトウトしていた時のことです、玄関の隙間から音も立てずにカンコ叔母さんが入って来ました。

 カンコ叔母さんは、いつも寝てばかりいたので、部屋に突然入ってきたのには、私もビックリしました。すると、祖母達の前を通り過ぎ、私の方に向って来るでは有りませんか、祖母達は何も気がついていないようで、私は大きな声で叫ぼうとしたのですが、全く声が出ず慌てているうちに、カンコ叔母さんは、天井の角まで行くとスウーと消えてしまいました。

 しばらくして、やっと声が出るようになって「今、カンコ叔母さんの幽霊が入って来たよ。」と叫びましたが、「お前夢でも見たんだろ、カンコさんはまだ生きてるよ。」と皆んなに言われ、それもそうだなと思いましたが、それから一週間して、カンコ叔母さんが亡くなりました。

 カンコ叔母さんの生き震が、私に何かを教えに来たのでしようか…。亡くなったことを聞いた時は、さすがに汗で体がびっしょりになりました。

 やがて私が、小学校に入学する時期がやってきました。父が、学校は美幌の様な田舎では駄目だという事で、又室蘭に引き返されてしまいました。

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