一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

美幌での戦争時代

友人の死と疎開 > 美幌での戦争時代

美幌での戦争時代

 疎開したのは、私が四年生の半ばの頃です。そのとき祖父はもうすでに他界しておりました。祖母は、一人で暮らしていたので、急に大家族になり賑やかで困ったのか、喜んでいたのか複雑な表情をしていました。それでも又、私と一縮に暮らせるようになったことは大変喜んでんでいた様です。

 私が美幌に着くと、以前一緒に遊んでいた、朝鮮長屋のオンジや子供たちが駅に迎えに来てくれていたのには驚かされ感激いたしました。四年もの月日が経っていましたので私は、殆ど顔も覚えていなかったので些か情けないなあと自分自身に思いました。

 それでもすぐに皆とは、以前のように仲良く遊ぶようになりましたが、ある時、林の中で遊んでいましたら「木登りをして実を投げてくれ」と誘われましたところ、私は木に登れずにいました。

 そうしたら皆に「昔はあんなに木登りが上手だったのに変だね」と言われてしまいました。室蘭では、虐められていたせいか伸びのびと遊べていなかったのか体力は弱っていました。でも皆は優しく「僕達が実を取って下に投げるから帽子にでも入れて頂戴」と木に登って取ってくれました。

 美幌国民学校では、私の様な疎開っ子が増えた為、教室が足り無くなり中庭にあった物置きを教室の代わりにすることになりました。その物置きで勉強する生徒全員で天井から床、壁を綺麗に磨き、机や椅子を並べ、黒板を運び込れ何とか教室らしくなったところでやっと授業が始まりました。

 ー組と二組は女生徒のみの教室で、三組が我々疎開っ子の教室、四組、五組が男子生徒のみの教室とに分けられていました。男は、りっぱな軍人になるため、女は家事手伝いができるようになるようにと、教育の中身自体も男女で分けられていたのだと思います。

 現在のような共学制ではなく、当時は小学生から性別で分けられておりました。又、室蘭では男子校と女子校で学校自体が分けられていたのですが、美幌の学校では、クラスが性別で分けられていただけで学校内では同じだったことには当時は驚きました。

 私達の教室は、学校の廊下から中庭に出る入口があり、そこからざら板の上を歩いて教室の戸を開けて入らなければならず、冬はざら板の上に雪が積もり、長靴を履いてその上を渡り、教室の前で脱いで中に入るといった面倒な教室でした。

 当時の先生の、教育態度は傲慢で何か我々がミスを犯したら直ぐに、ビンタ(張り手)の嵐です、まるで軍隊のようでした。実際、竹槍で敵軍を付く練習をしておりましたので軍隊と同じでした。

 ミスといっても何がミスなのかは私たちにはなかなか判断が付かないことも沢山ありました、先生に怒られビンタされるのがミスなのだと思っていました。

 ある時、一人の生徒が先生に殴られたか蹴飛ばされたのかは定かでは有りませんが、その子が吹っ飛んでいったのが見えました。地面に叩きつけられ頭から血が流れました。その時は流石に先生も驚かれ「直ぐに病院に連れて行くのでお前たちも手伝え」と言われて私が一緒に付いて行く事になりました。

 あとから親も駆けつけましたが怪我は見た目よりもたいした事はありませんでした。彼は直ぐに又、登校してきましたが、今でも何故彼が怒られたのかは、私には判りません。彼が何かミスを犯したのでしょう、学校も何事も無く問題にはしませんでした。今では大問題でしょうがそれが当たり前という時代でした。

 美幌国民学校に転校してからは、暖かい日の殆どは授業が無く、畑仕事をさせられました。冬は、畑仕事ができないから毎日のように授業があります。私は室蘭から転校してきたせいか、二学期・三学期の成績は大変良く学校の生徒指導員に抜擢されました。腕に指導員の字が入った腕章を巻き何か悪い事をした生徒がいると同級生は勿論のこと下級生にでビンタを張っても良い事になりました。

 私は怒ることは有っても、一度も同級生や下級生に手を挙げた事は有りませんでした。しかし、先生からは指導員としての責任不足としてビンタをされることはしょっちゅうありました。

 成績が上がったと申しましても良上が優に変わったと云うだけでそんなに頭が良くなった訳では有りません。それでもクラスではトップクラスでしたので皆からの受けは良く、室蘭の頃とはうって変わって、人気者でした。しかし、体を動かす体育系はまるで駄目で、せいぜい相撲が少し強かったくらいです。

 この頃も朝鮮長屋のオンジとは相変わらず仲が良くいつも一緒に遊んでいました。他にも林君や北条君、中谷君(理髪店の息子)とも仲が良く、この中谷君とは、後にも行動を一緒にする仲になるのですが、それにしても縁というものは不思議な物で、自分の力以外で起こりうるものだとつくずく思います。それはあとで書く事にいたします。

 二度目の美幌の思い出は尽きませんが、当時の私の役目は、お稲荷さんの太鼓叩き役で毎朝六時に太鼓を叩いて、御近所に時報を知らせることと、ブラザーと云う割烹に家賃を貰いに行く手伝いをさせられていました。

友人の死と疎開 < 美幌での戦争時代 > 美幌での終戦

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional