一人の理容師の人生を語った「自分史」です。「ヘアーサロン加納」

美幌での終戦

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美幌での終戦

 室蘭では、雪が少なかったので橇に乗ったことがあってもスキーをしたことはありませんでしたが、美幌は雪が多く学校の裏には小高い丘があったのでそこでスキーの練習をしていくうちに段々と滑れるようになりました。

 五年生になり学校にも慣れてきた頃、学校の畑で取れる穀物だけでは、需要に追いつかなくなってきたのか、四キロもある所に畑を借りて、其処までスコップや鍬を持って歩いて行くのですが、着いたと思ったら直ぐに畑起こしが始まり、足も腰もくたくたになりました。

 最初の頃は、全然歩けなく生徒の中でも一番遅く、畑に行くまでに女の子にまで抜かれる始末で、足を引きずりながらやっと着いた頃には皆が一休みして畑仕事を始める時で、結局休むことなく仕事をしなければいけませんでした。

 そんな日が毎日続いていたので、足も腰もしまいには動かなくなりました。なんとも情けない話です。祖母に北見の市立病院に連れていかれ、太陽灯(今でいう赤外線)を当てられ、揉んでもらい治療を受けることで何とか動けるようになり、皆んなに付いて行けるようになりました。

 その様な生活の中でも、学校では相も変わらず、軍事教育中心で、今思えばもう敗戦が近いというのに「敵軍が上陸してきたら竹槍や突破器で相手に突き刺せ」と無茶な指導をしていたのですから滑稽な話です。

B29

 その頃は、もう完全に負け戦で、南方の島々はアメリカ軍に占領され、サイパン・グアムの戦い、硫黄島では全員玉砕。

 東京大空襲では、数十万人以上の死亡者。沖縄は完全に占領され、日本が誇る戦艦武蔵は撃沈させられてしまいB29の爆撃、そして最後は、広島、長崎への原爆投下により完全に打ちのめされ敗戦に追い込まれた。

 やがて、昭和二十年八月十五日、天皇陛下のラジオ放送が流れ、日本が降伏したことが公表されました。

 その時、私もそのラジオを聞きましたが、当時何を言っているのか全く理解は出来ませんでしたが、日本が負けた事だけは、はっきりとわかりました。

 その日本が負けた報道があった日の夜、祖母の保有する朝鮮長屋の住人達が。私達の家の前に冬用に積んであった薪を引っこ抜いて「たいまつ」にし、夜中一杯「日本が負けたぞ!万歳!万歳!」と焼酎を飲み、暴れまくっていました。

 私達は、恐ろしくて一晩中眠る事も出来ませんでした。

 次の日も、朝鮮長屋の住民は、朝から騒いでいました。しかし、誰かが通報したのか、日本軍の兵隊さんが駆けつけると、ピストルを地面に一発、空に向ってもう一発打ち込み、朝鮮人に向って「お前ら日本を馬鹿にするのか?そうゆう奴らはおれの前に出て来い!このピストルで撃ち殺してやる」と怒鳴りました。

 すると、あっという間に一人残らず散ってしまいました。私は溜飲を下げ(胸のつかえがおりて、気が晴れること。)まだやっぱり兵隊さんは強いなと子供心に思いました。

 そのうちに朝鮮人の大半は本国に帰って行きましたが、私と仲良くしていたオンジと尊敬をしていた二つ上の女の子(朝鮮語は勿論、日本語・中国語・ロシア語の四ケ国語を喋れていた人)も帰って行きました。その後、北と南の朝鮮戦争が始まり多数の死者が出たそうでずがその人達はどっちの国に帰ったかも知りませんし、その後、生きているのか死んでしまったのかも私には全く分かりません。

 終戦直後、私達生徒は当時美幌にあった日本軍の航空基地を見学に行きました。そこは、市街地よりかなり離れていましたが、着いた時はこんな立派な建物がまだ日本に残っていたのかと驚きました。建物も鉄筋コンクリートで出来ておりその前は公園の様な芝生が敷いてあり噴水も出ていました。

 私達は、その前を通り滑走路や飛行機の格納庫に向かいました。格納庫には爆撃機が三機残っており、戦闘機も五機くらいはあったと思います。他には機関銃・鉄砲・砲弾・鉄砲玉等の部品がきちんと並んで置いてありました。

 爆撃機の中にも入れて貰ったのですが、余りの狭さと低さにはビックリしました。子供の頭でもぶつかり腰を屈めなければ中で移動ができないのにはがっかりしました、おそらく全員でも十名は乗れないでしょう。前に操縦席と副操縦席、後には兵隊が七名位乗れて、飛行機下の前部に円筒ガラスで出来た(かろうじて一人が乗れる位の狭い所)で機関銃を撃つ人が入る部分だけです。前面の両サイドにも一丁ずつ機関銃が付いていたかも知れません。

 私達の教科書も殆ど墨で塗りつぶされ、歴史等は完全に今まで習ったものとは違いました。昔習った歴史では「高天原に居りました神々がシャチの俸を中国よりの大海原に差し込み引き揚げた処滴が落ち其れが日本列島に成り某処にイザナミの神とイザナギの神を降し出来た子供が天照の大神と佐能の草で天照の大神の子孫が第一代神武天星で其れよりずうっと万世一系の天皇の始まりだと」習っていましいたがすっかり狂ってしまいました。

 今ですと笑われますがその頃は真剣にそれが正しいと信じていました。今では、卑弥呼なる女帝が元祖で桓武天皇位から天皇制が出来た様に変わってしまいました。我々が習った神武・綏靖・安寧・懿徳・考昭・孝安と言った歴代の天皇は抹殺されてしまった。その他に修身という科目も無くなりました。

 その頃からは暫く平和でした。私は祖母と芝居小屋に行き、「瞼の母」や「国定忠治の赤城山」等を観に行ったり又、当時仲良くなった理髪店の息子の仲谷君の家にも何度か遊びに行きました。その他にターザンや、昔私が室蘭にいた時には「お子様は見られません。」と言われいた時代劇で「風雲地獄谷」と云う映画を観にいきました。

 その他、家の裏に生えていた竹藪より一本竹を引き抜き釣り竿を作り、それに木綿糸をつけ釣針だけは釣具店から買った物を使い、餌はミミズを取って持って行き、家から三キロ位歩いた処にある小さな沼に魚(ふなかごだっぺのような魚)を釣りに行くようになり、その面白さにハマっていきました。

 そんな日々をを綴り方(現在の作文)にし、夏休み後、学校に提出したところ、後日北見地区の小学校大会で一位となり表彰されました。

 そのうちに札幌では、米兵の中でも悪い部隊で有名になっていた黒猫部隊が美幌に駐在する事になり、美幌の繁華街でも毎日のように娼婦(当時はパンパンと言っていた)を膝の上に乗せ、部屋の窓から身を覗かせるようにして「キャアキャア」言わせ騒いでいたり、ダンス等をしていた姿が窓越しに見えました。

 又、子供達はガムが欲しくて良くアメリカ駐在軍の後を追いかけ慣れない英語で「ギブミーチュウインガム・ギブミーチュウインガム」と騒いでいました。私はそれを見て何となく情けない思いが込み上げて来ました。

 その頃になると私も、大分元気で丈夫な子供になり、学校で借りていた畑までは、平気で歩けるようになってました。収穫時には南瓜(カボチャ)・馬鈴薯(ジャガイモ)・トウキビをリュックサックに沢山詰め込んで家まで持って帰って来たのですが、皆んなにそんな重いものを持って来なくても家で取れているのにと言われ誰も褒めてくれませんでした。

 学校の畑だけではなく、私達学生は農家の手伝いに度々行かされました。只当時は耕運機の様な機械類はありませんでしたので、代わりに馬が耕運機を引いたり、芋掘り機を付けて掘り起こしますので、私達は起こして出てきた芋をひろい一か所に集めれば良いので、比較的に楽な仕事でしたが、それでも一日中そんな農家の仕事をしていると、次の日はバテバテで授業処では無かったのです。

 その様な平和な日々を送っている間に、室蘭在住の父親から「大分室蘭も落ち着いて来たので帰って来い」と連絡があり私達家族は室蘭に帰ることにしました。

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